利き手とは逆でごはんを食べる魅力

新しいことに挑戦すると、予想以上の発見がある。

なにかに挑戦したことがある人はとっくに経験済みだと思う。

 

予想以上の発見って楽しい。

ぼくはもともと、大きな挑戦をしないと

その楽しさは得られないと思っていた。

険しい自然に挑んでみたり、アフリカを縦断したり。

じっさいに今まで大きな挑戦をするたびに

たくさんの発見をしてきた。

 

だけどじつは新しい挑戦であれば

小さなことでもいいってことに気がついた。

 

今日はそんなお話し。

 

というのも最近、スケボーに乗り始めた。

別に彼らのストリート系の雰囲気に憧れたわけじゃなくて

ただ移動手段がほしかった。

 

徒歩で30分の距離を日常的に移動しないといけない。

もちろん歩いてもいいけど毎日はくたびれる。

 

そこでスケボーを買った。

べつに自転車でもよかった。

けれど自転車はこれまで飽きるほど乗ってきた。

スケボーはほとんど触れたことさえなかった。

知らないことのほうがおもしろそうだ。

 

というわけでスケボーを買った。

 

最初はむずかしいし、こけそうで怖いし、

肉体的にも精神的にも歩くほうが楽じゃね?

と思った。

効率で言えば自転車のほうがはるかにいい。

 

だけど徐々に乗れるようになってくる。

楽しい…

 

重心の置き方とか意識して毎日試行錯誤する。

するとだんだんコツが分かってきて

(徒歩で30分の距離を)20分以上かかっていたのが

10分たらずで移動できるようになった。

 

この「成長してる感」がまずひとつ目のメリットだった。

 

 

また自転車とは違ってスケボーは

道路のコンディションに大きく影響される。

荒いアスファルトは難しいし全然進まない。

つるつるのところは気持ちよくグイグイ進む。

 

いままで気づいていなかっただけで

アスファルトにも様々な個性があったのだ。

 

いつものアスファルトの道も発見がいっぱいある。

小さなところに目を向ける方法としては

歩くことがベストな方法だと思ってた。

ゆっくり移動することで細やかなところに気を配れると。

だけど実際は、スケボーに乗り始めたことで

歩いていたときよりも多くの発見があった。

 

大事なのは「視点を変えてみる」ことだった。

 

ぼくも含めて多くの人は

「すでに知っているもの」を選択すると思う。

この移動手段の購入の例を挙げるなら

もともと知っている自転車を選ぶということ。

どの程度便利なのかを予測できるし、訓練も必要ない。

なにより、あらゆる面において楽だ。

 

だけどただスケボーを選んだだけで、ただの移動時間が

「成長を楽しみたくさんの発見をする時間」に変わった。

 

べつにスケボーは一例だ。

ようは選択する時に

すでに知っていて楽なモノ・コトを選ぶより

新しいを取り入れることで結果的にハッピーになる。

 

タイトルのように普段とは逆の手でごはんをたべるだけでもいい。

大事なことは新しい視点を身につけることだ。

 

ぼくは

「楽せずに新しいことをするぞ」っていうと

なんだか気を張って疲れちゃう気がするから

「毎日が実験だ!」って思ってる。

 

実験だって思うとなんだか楽しいし、

次はどんな実験をしようかなワクワクする。

 

自分に投げかける言葉って大事だなぁ。

 

 

なにかおもしろい実験があれば教えてくださいな!

 

タチの悪いヤンキーと大人しく読書してる文化系

タイトルの2つのタイプの人間、あなたが好むのはどちらですか?

たとえばどちらかの人間と3時間限られた空間にいないといけないとすれば、どちらを選ぶますか?

 

だいたいの人は後者だと思いますし、もちろんぼくも後者を選びます。

ヤンキー風のいい子なら別かもしれないですがタチの悪いヤンキーなんて。

 

実はぼくは今カナダにいます。

カナダは大麻が合法です。

 

これはぼくがカナダで感じた酒の酔っ払いと大麻のブリブリの人の差です。

酔っ払いがヤンキーでブリブリが文化系。

 

酔っ払いが気が大きくなって暴れてる一方でブリブリの人はイヤホンつけて幸せそうな顔しながらリンゴかじってます。

 

念のため説明するとブリブリってのは大麻を吸ってようはキマッテル状態。

キマッテルって言うと悪いイメージを持つ人もいるけど、酒飲んで酔ってるのもふつうにキマッテル状態ですよね。

見慣れすぎて感覚がマヒしてるだけで。

ようは脳みそが平常ではない状態。

 

ただ平常ではない=悪かというとそれも的外れ。

大麻を吸った後の人はイヤホンで音楽を平常よりも楽しんでリンゴを平常より美味しく感じながら食べてる。

大声も出さないし、もちろん人も殴らない。

 

クルマの運転とかはするべきではないと思うけど、べつにそれは酒も同じ。

人間性の変化という面においては明らかにどちらのほうが害があるか分かりますよね。

 

もちろんぼくは酒のことを悪く言いたいわけではないです。

ぼくもお酒は大好きですしたくさんの魅力が詰まってると思います。

 

ただお酒はオッケーなのに大麻=薬物・危険って決めつけてる人が多すぎるのではないかと。

芸能人の大麻騒動でみんなが騒いでるのを見るたびに思うのです。

 

大麻は薬物だから危険だと言いながら、酒飲んでタバコ吸ってる人なんかを見ると、「ああこの人は誰かが定めたバイアスの中で生きてくんだな」と思います。

 

もちろん日本で大麻を所持するのはいけないことかもしれない。

ただ、表面だけを見てその次の「なぜいけないのか」に思考が及ばないのはもっといけないことだと思います。

 

法律がそうだから、政府が言っているから、テレビが言ってるから、すべて正しいことだ。

そんな思考停止のロボット人間になってたらAIに滅ぼされちゃうよ。

このブログのタイトル、毎週変えます

もうぜんぶ言ったのですが、このブログのタイトルを毎週変えることにしました。

 

正確に言うと、「今週は、」の部分は固定でその後の部分がどんどん変わります。

 

なぜそうするのか。

理由は4つあります。

 

1つ目。

なんか「今週は」って言われると「毎週更新されてるのかな?」って思いません?

いや、もしかすると思わないかもしれない。

だってこのアイデアは思いつきだから。

でもまあどうせしょうもないタイトルつけるよりは1人でもいい捉え方をしてくれるほうが得じゃね?と。

 

2つ目。

「今週は、の後の部分変えなきゃ」って自分自身が思うことによってブログの存在を意識して記事の更新率もよくなるのではと。

書くのって楽しいけど、なぜかたまに離れてしまうのがぼくのタイプなので。

じゃあ分かってるなら対策しようと。

 

3つ目。

2つ目と同じように「変えなきゃ」って思うと、今週のことを思い出すので自分のフィードバックとしてよいのではと。

日記の利点に似たような作用を求めて。

 

4つ目。

タイトルが毎週変わるブログって他になくね?です。

別に調べたわけではないのでごまんとあるかもしれません。

さっきも言いましたが思いつきなので。

まあ他にない可能性があるのならタダだしやっちゃえと。

 

 

まあとか何とかいってるけど、この4つはじつは本当の理由ではありません。

そんな〜自分のメリットばっかり考えてるわけないじゃないっすか〜(すっとぼけ)

じゃあ本当の理由は?って言うと、見てくれている人が「今週はどんなタイトルだろう?と楽しんでもらうため」です!

そのためになるべくおもしろい出来事をタイトルにするようにしますし、おもしろい出来事が起きるように日々挑戦を積み重ねます!

 

いつか古株のファンたちが

「あの時あんなタイトルあったよね〜」

「ああ!あったね!なつかし〜」

となってる未来をアホみたいな顔で空想しながら…

14兆円持ってても80歳くらいで死ぬ

人は時計を中心に生活している。
窓がなく壁にある時計以外は時間を知る由がない、そんな部屋を想像してほしい。
時計が3を指していれば3時だと思うし、一周してまた3を示せば15時だと思うだろう。
そのように時計とともに時間の経過を知り1日という自分たち人間が定めた単位を実感する。

もちろん1日は地球の自転の1周分の時間だ。それを基準にしているのだからむしろ地球の自転の1周を24分割して分け、「1時間」という単位をつけたと表現する方が正しいのかもしれない。
また人間は時間の経過をさらに客観的に測るために、単位をさらに細かく刻んでいき、それぞれ「分」や「秒」などと区切っていった。
ただし、細かく区切られたものでさえ人間は時間を正確に測れない。例えば10秒というごく僅かな時間。それでさえも自力では正確に測ることができないのだ。
人間はそもそも時間の経過を測る能力を兼ね備えてない。
ましてや何時間経過したか、などを自力で計測することなどはあり得ない。
人間は過去を記憶という形で記録していくが、とある出来事から現在まで何日、もしくは何時間が経過したかを記憶のみを駆使して判断することができる人間は存在しない。
つまり「この世界はつい5分前にできた」という可能性を誰も否定できないの。

その後人間はさらに、より長い時間の経過を測る基準として、「年」という概念を創り出した。
太陽の周りを地球が1周するために必要な時間を区切りとし、日の365倍の時間の経過をもってようやく1(年)となる巨大な概念を構築したのだ。
つまり「日」と「時間」の1=24の関係性のように人間が無理矢理「年」を分割したのではなく、元々地球が太陽の周りを一周する間に365回自転していたのである。
自転を元にした「日」の基準と同じように自然の摂理に応じた素晴らしい定め方である。

つぎに、「年」を生み出した後の人間はカレンダーと呼ばれるものも作った。「日」と「年」の関係性を分かりやすいように図に表すためだ。ここで人間の知能において365という数字は管理するにはあまりにも大き過ぎるという問題が生じたため、新たに「月」という概念を作り出すことで問題を解決させた。

だがこの「月」の基準を決める際に、西の人間は太陽を元に基準を定め東の人間は夜になると浮かび上がる月を基準に定めた。
結果的に、太陽を基準に定めた西の人間たちは1年を12分割したものを1(月)とした。これまでも「日」は24時間=12×2、「時間」は60分=12×5であるなど時間の経過と12という数字に対して整合性のようなものを感じていた。
ただ1年を12で無理矢理分割したせいで1月に一定の日数を定めることが出来ず、30日の月や31日の月、ましてや28日の月があるなどちぐはぐなカレンダーが出来上がった。
この西の人間の考えた月の基準の概念も自然の摂理を到底無視した考え方である。
そのため、人間が本来内に持つ自然的秩序に狂いを生じさせる結果となる。

一方で、東の人間は月の満ち欠けを基準に「月」を定めた。
月が全く見えなくなる新月から満月を経てまた新月に変わる28日を1月とした。
そのため東の人間のカレンダーにおける1年は13ヶ月+1日(13×28日+1日)である。
こちらは月を元にした自然の摂理に適った基準である。
サンゴの産卵も28日が関係しているし人間の子孫繁栄に関する事柄においても28日は特別な意味を持つ。

そもそも「月」という呼称である単位にも関わらず西側は太陽を基準にした。(英語のMonthもMoonに由来する)このこと自体が矛盾しており、自然的秩序に悪影響を与える可能性があることを想像することもできたであろうに。
ただ西側の人間たちは別の部分で強大な力を持ったため、地球上を支配し自分たちの基準を押し付けた。
そのためほとんどの人類が本来基準にすべき東側のカレンダーではなく西側のカレンダーを元に現在も生活している。この事による何よりの問題は、人類は都市文明をつくり自然から離れた生活を営むせいで、自身の自然的秩序が崩壊寸前であることに気づいていないことである。
ちなみに「時間」や「分」、「秒」が自然の摂理ではなく東側のカレンダーのように無理矢理分割して定められたにも関わらず人間が平気である理由は、自然的秩序に影響を与えるには時間の経過としてあまりにも短すぎるからである。

人類が定めてきた「時間の基準」に話を戻そう。
「年」を生み出した当初、365日をもって1年という考え方はとても巨大な概念であると考えられた。にも関わらず、人間は持ち前の対応力を発揮し慣れを生じさせた。
そのせいで「気がつけばもうあれから5年経った」などとまるで刹那的にさえ感じてしまうようになったのだ。
ただしそうなってからしぶとさを発揮するのも人間というものである。

人間はさらに「世紀」という概念を考え出した。世紀は100年という途方にくれるほど長い時間をもって1(世紀)とされた。
つまり、「年」や「日」と同じように宇宙や太陽系などの自然との関わりに目を向けるのではなく、キリのいい数字というだけで1=100と定められたのである。
太陽系の先にはさらに大きな銀河があるのだから、そこから時間の概念となる単位を引用すればよいにも関わらず人間はその行為を放棄した。
「世紀」が考え出された当時は太陽系外のことを計測する技術がなかったからだという人もいるが、では「世紀」という概念は作り出すべきではなかったのだ。
人間は「年」よりも大きな単位を作り出すには早すぎた。
その証拠に人間はいまだに何十億年という表現を使う。地球が生まれてから45億年、などである。
本来なら大きな数字を言う場合はより大きな単位で言い表すものである。つまり地球が生まれてから4500世紀と表現するべきなのだ。
だが人は無意識で「年」を使う。
これは人間は宇宙との調和をもって考案された「年」を無意識のうちに快く受け入れ、無理矢理考案された「世紀」に対して不調和を感じているからである。
なぜなら人間自体が宇宙の一部であり、まだ人間の能力では視覚化できない宇宙の法則に従って世界の全てが成り立っているからである。

ただ人間は「宇宙の法則の視覚化」はできないものの「直感的に感じる」ことができる者は一部存在する。その直感的感覚は第6感と呼ばれる。
また第6感を持つ者たちは感じ取った「宇宙の法則」のことを「神」と呼び、それぞれが「預言者」と呼ばれた。

 

 

しらんけど。

インドのクセと納豆のクセ

インドって国とは、一言で言えば「納豆」なんです。

まずね、街中がね、臭いの。

なんってったってそこら辺に野良牛がノソノソと歩いてる。

日本で鳩がいるテンションで牛がいる。

臭い理由はね、やつらのウンコちゃんです。

のっけから汚い話ですみません。でも事実なのよ。

日本でも鳩のフン見かけますよね。運悪く頭に落とされちゃったり。

でも鳩のフンなんて可愛いもんですよ。

頭に落ちてきても「ポトン」って感じでしょ。

もし牛のフンが頭に落ちてきたら「ズドンッッッ」ですからね。

ヘタすれば首ごと持っていかれますよ。

まぁそんな彼らのフンが町中に転がってるわけですから、臭くもなりますわ。

そんな中どこのレストランもカレーしか売ってませんからね。

なかなか素敵な国ですよね。

 


あとインド人ってね、とても「しつこい」人が多いんです。

そう、納豆のネバネバみたいな人たち。

例えば、

『このブレスレットどうだ、かっこいいだろ』

「いらない」

『あれだろ、色が気にいらないんだろ、ほら別の色もこんなにあるぜ』

「いらない」

 『おいおい、たったの△ルピーだぜ?』

「いらない」

『しかもこれにはな、ヒンデューの神の力がこもってるんだ』

「いらない」

『わかった、じゃあこの木彫りのガネーシャはどうだ! 』

しつこいよね。鋼のメンタルだよね。

こんなやりとりを10分以上続けて、ようやく立ち去ったと思ったら

また別のヤツが来たりするからね。

いや、さっきのやりとり見えとったやろオッさん。

あんなに断り続けてたのに、なんで同じ物売りにくるねん。

どこに勝算があると思ってん。

ほんと、まさに納豆のネバネバ的しつこさですね。

 


こんな国だからインドのことを好きな人と嫌いな人がはっきり分かれる。

好きと嫌いに分かれるというより、「大」好きと「大」嫌いに分かれる。

これまた納豆みたい。

「嫌い」になる理由は分かりやすいですね。一目瞭然。

「好き」のほうがちょっと奇妙ですよね。

じつは「好き」な人ってのはね、そんなインドのクセにはまってしまってるの。

めっちゃ臭いし、いちいちしつこいのに

なんだか無性に欲しくなっちゃうの。

ほんと納豆。

病みつきになったら止まらない。

そんなこんなで僕は4回もインドに行きました。

多分また行きます。

 


食わず嫌いせずに、皆さんもぜひどうですか?

ふっくらモチモチの、人生のお供に。

つづけること。やめること。 -お仕事やめます

サラリーマンの仕事を辞めて、山小屋で働くと言ったら、

「いいやん」と言ってくれた。

 

日本社会を基準にするとこの行動はけっして「いいやん」ではない。

将来のこと考えてんのか。我慢して続けろよ。

実際に何人かにはこう言われた。

 

将来のことはもちろん考えている。

考えていないと思ったのかと逆に聞きたい。

自分の将来のことなんて自分が一番考えているだろう。

人間が無意識のうちに考えていることは、過去のことか未来のことの2つしかない。

あなただってそうではないか。

 

 

我慢して続ける。

なぜ続けることだけが正解なのか。

なぜやめることだけが否定されるのか。

もちろん一つのことを続けることで見えてくるもの、身につくものもたくさんある。

継続は力なりという言葉も本当だと思う。

でも、それだけじゃないだろう。

よっぽどの怠惰ではない限り、やめることは新しいことを始めることだ。

新しくはじめたことによって見えてくるものがたくさんある。

 

続けることで見えてくるものと、やめることで見えてくるもの。

どちらも考えて行動を決めればいいのに、

どうも「やめる」のほうにだけ、否定的な人たちが多いような気がする。

 

やめるには勇気がいる。環境を変えるには決心がいる。

 

続けるには我慢がいる。だけど、惰性でも勝手に続く。

 

 

けっきょく何が言いたいかというと、

やめるって言って「いいやん」って

言ってくれるともだちがいるって素敵だってこと。

 

 

ということで、来週から北アルプスに移住します。

フレディマーキュリーのルーツの島

どちらかと言えば、海より山が好きだ。

山のほうが落ち着くし居心地がいい。

BBQするなら砂浜より川辺でやりたいし、山の日が制定されたときは妙に心が踊った。

たぶん前世は山奥で竹でも刈ってたんだと思う。

 

そのくせダイビングのライセンスは持ってる。

しかも1番初級のやつじゃなくてその次のレベルのやつ。エジプトで取った。

別に取るつもりは無かったけど、そのときダイビングのライセンスを取るくらいしかやることがなかったから取った。

エジプトにはダハブっていう人間をダメにする街がある。世界にいくつかある「堕落の神」に愛された街のひとつだと思う。

あとはネパールのポカラとか、インドのマナリーとか、タイのパーイとか。

 

そしてまた別の、新たな楽園を見つけた。

べつに大きくも小さくもない微妙なサイズの島。

ぼくは今その島でビールを飲みながらボーッと海を眺めてる。

あれっお前ふつうに海好きやん、とか思われるかもしれない。

自分でもまぁ海も悪くないやん、という思いが芽生えてきている。

でもここが特別なんだと思う。

海というより、この島と、島に住まう人たちの空気が心地いいのだ。

 

この島に来てから、ぼくはテントの中で寝泊まりしている。

日が昇るとテントの中は燃えるように暑くなる。おかけで毎日規則正しく早起きできる。

でも早く起きたからといって特になにをするわけでもない。

ハンモックに寝そべって読みかけの小説を読んだり、上半身裸でアコギをポロポロ弾いたりする。

昼ごろになると近くに住んでる漁師のオッさんが漁から帰ってくる。ぼくは何気なく彼のところに遊びにいく。

そこで市場に売らないような小さな魚を安く売ってもらう。

調理法とかさばき方とかよく分からないから、とりあえず焼いて塩ふって火にかける。

そのあいだにはビールの栓が空いている。

魚が焼ける前にビール自体が空いている。

 

けっきょく何を言いたいんだっけ。
そうだ、アフリカには人体に卵を産み付ける虫がいるから気をつけてね。

僕はもちろん産み付けられたよ。

 

 

 

2015年2月 タンザニア ザンジバル島